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**ポケットモンスター**(1999.05.31.)

幼稚園で流行っていることもあり、最近になって子供が「ポケットモンスター」と
いうテレビアニメに夢中になっています。
何度かいま放映中のもので見てみましたが、モンスターの種類や物語の世界観
がよくつかめません。
それでも子供は関心を持って見続けますので、訳の分からない状態で見ても
記憶に残りにくいかもしれないと思い ここ何週間かはビデオで最初から順序
立てて私も一緒に見ています。
(「小さいお子さんの場合は保護者と一緒にご覧ください」と巻頭で流れますし)
さて 見始めてみますと、主人公の目線が子供と同じ高さなので失敗を繰り返し
つつ成長してゆく様子が理解しやすく出来ており、感心しました。
特にモンスターボールと呼ばれている携帯カプセルにはいることを拒否して
主人公のサトシとともに旅をするピカチュウというネズミポケモンが、必ずしもペット
的なかわいがられるだけの存在ではなく自分の意志や感情をはっきり持っている
点はコンパニオンアニマル的でほのかにいい感じが漂っていると思います。
さすが10年に一度のキャラクターと市場で言われるだけの魅力は備えています。
他にも会話に駄洒落を取り入れていること、バトルといわれるものを繰り返して
経験を積むとモンスターが進化してゆくこと、主人公の周りでその時々に起こる
出来事の中で善悪それぞれの考えを持った人々と出会うこと・・どれが子供の
心を掴むのかはわかりませんが、それらすべての調和が取れていることが一番
大きな要素なのかもしれませんね。
しばらくはこの世界につきあってみようと思っています。
 
 


**とりさんと暮らしたい、でも**(1999.06.18.)(1999.06.21.加筆)

相変わらず我が家では「ポケモン」にどっぷり漬かった日々を過ごしています。
いまや子供と共にオープニングテーマソングを毎日十数回歌い、ロケット団が
登場するときのセリフをほぼそらで言えるようになりました。ムサシやコジロウに
なりきってごっこ遊びをしているサマをお見せできないのは残念です(笑)。
ただいま12・13巻目までレンタルで借りて見終わりました。
そのなかで12巻目の「(やっとあえるね!)ピカチュウのもり」では何故か私だけ
が見る度に大泣きする羽目に陥っています。
子供は私が泣く理由がわからないので「ママだけ泣いてもいいねんで」なんて
クールな態度を取っていますのが私自身には逆に不思議でした。
しかし泣きつつも考え続けておりまして、涙の原因その他が見えてきました。
要はピカチュウの頬がだいだい色であることが かつて私がともに暮らしていた
オカメインコに対する愛着心に刺激を与えていたのが原因でした(苦笑)。
あとは主人公のサトシが一旦は野生ピカチュウの群に自分とともに旅を続けて
いるピカチュウを置いて行こうとするときに「この方がきっとあいつにとって幸せ
なんだ」というセリフに心が揺さぶられたことでしょうか。
子供にはまだその様な経験がないため、大泣きする理由はないのでしょう。

そしてもうひとつ涙の真相を申し上げますと・・。
たいていの方は、はじめは動物を見た目で選んで買い始めると思うわけですが、
そのうち可愛い動物の由来にも興味を抱いたりしますよね?「もともとはどんな国
でどんな生活を送っていたのだろう」と。そうやって調べたりしたことのある方には
理解していただけると思います、原産国が日本以外のものが多いことを。
結局アニメでは群のピカチュウ達に応援される形で再び一緒に旅を続けますが、
それはサトシのピカチュウが彼と共に歩むことを選んだからハッピーエンドなわけ
で、本来はサトシが言うとおり野生で適応できる動物は個人で世話するべきでは
ないのですよね。
(もっとも それを言ったらポケモンの世界は成り立たないのですけれど)
わたしは豪州原産のオカメインコとの暮らしをふたたび望んでいます。それも
かつて実家で飼っていた彼らを思い出すとき 不注意から母に落鳥させられて
しまったところで途切れる記憶を塗り替えたいとの動機からです。
でも新しく迎えて手塩にかけて育ててもそれは思い出を増やすことで、同じ種類
だからといって「やり直し」をしたいなどと考えるのはとりさんに対して失礼な考え
でした。また贖罪としてなら飼わないことこそ一番すべきことかもしれません。
サトシの言葉をきっかけとしてここまで考えはしましたが、だからといってわたしの
自己中心的な思いが無くなるわけでもなく、只々情けなく恥ずかしいです。
きっとオカメインコの雛を見る度に自分のこころに向き合う日々は続くのでしょう。
 
 


**考えが狭いと言われても**(1999.06.29.)

脳死での臓器提供が徐々にトピック記事として扱われなくなり、一般的な事例と
して溶け込みつつある今日この頃、ようやく手にした「臓器提供意志表示カード」
を前に考え込む日々が続いています。
私自身は確たる宗教観も持っていませんし、輪廻転生を信じているわけでも
ありませんので問題なく提供に賛成する立場をとれると思っていました。しかし
「脳死」は装置で体温が保たれた状態だと知ってからパパに反対されています。
子供には(もちろん大人でもそうですが)ただでさえ死というものは理解しにくい
のにさらに混乱するような真似はやめて欲しいという理由からです。
その後時間をかけて何度となく話を持ちかけてみるのですが、そもそも「死」が
誰にでも訪れることを信じたくない彼には話題すら「縁起でもない」もののようで
なかなか私の考えを伝えるところまでいけません。いつも「キミは子供の身に
なって身内を失う哀しみを考えたことがあるのか。考えが狭いとは思わないか」
と言われてはなしが終わってしまいます。
私の身体のことなのに私の意志だけでは決められないなんて、しかも心臓死後
の眼球提供や腎臓提供の登録済みであることを結婚時に告げた際特に否定的
なことも言わなかった人からの言葉として私は意外な感じがして驚いています。
そういうものなのでしょうか?
私にとっては死体は可燃ゴミで、リサイクルできるのならお好きにどうぞ、という
思いしかありません。子供にはある程度前もって死生観を伝えておけば問題が
無いと考えていたのですが問われてみますと悩むものですね。
意見が対立したまま携帯しても意味がないのに迷う心が今日も意志表示カード
を空白のまま持ち歩かせています。
 
 


**だまっていられない**(1999.09.04.)

もう話しても良い頃でしょうか。
この夏、弱い熱帯低気圧の通過に伴う大雨で増水した川の中州に取り残され、
18名流されうち13名がなくなったキャンプ事故に関連して思っていましたことを。
事故報道直後は行動の馬鹿さ加減に「自業自得な事に救助義務もないのに」と
若干冷ややかな気持ちでしたが、家族で参加しているところがあったとの報道を
聞いてから、判断能力のない子供が巻き添えになったことに対する報道の姿勢
に感情のいらつきが止まらなくなっています。

こういう事態がこの国で滅多に起きないような珍しいことではないでしょう?
事態が起きる前に警察に通報もされているのでしょう?
赤ちゃんを連れて危機に対処できるわけないのはわかっていたことでしょう?

助けられなかったことを教訓にしようと言うのでしたらキャンプを初めとする
アウトドアの知識を身につけようとか親としての自覚をもっと持とう、とかだけ
ではなくて こんなときこそ第三者が子供を親から取り上げて保護できるような
法整備をすすめる必要性はありませんか?
テレビを見ている限り知識人といわれるコメンテーターでそれを声高に叫ぶ方
は見あたりませんでした。(いらっしゃったらごめんなさい)
親に状況の判断能力が乏しいから、と子供まで影響をいつもまともに受けるの
は仕方ない、悲しい、などの感情的な思いだけですまされることなのでしょうか。

以上、どうしても黙っていられないので忘備録として記しておきます。
今日はものすごく偉そうなことを書いて申し訳有りませんでした。
 
 


**ある映画にまつわる思い出話**(1999.10.06.)

あれは最初の結婚話が破れて やけになって親のすすめる人と付き合っていた頃、
性格は良さそうだけど自分の意志をマイルドに表現する彼にどうしても合わない
ものを感じていたある日 私は別れる理由欲しさにデートと称してある映画を一緒
に見たいと誘い出しました。
実はその日見ることに決めていた映画は「シルクウッド」
人間的にも社会的にも問題点が満載のもの・・らしい、と前評判だけ聞いていた
ので「社会派を謳うほど退屈な映画なのだろうからムードぶちこわしは間違いない」
なんて勝手に決めつけて軽い気持ちで選んだものでした。
実際に設定も原子力産業に勤める離婚経験者が同じ境遇の異性と同性愛者の
友人と三人で共同生活を送るうち、図らずも勤務先の不正事実を知ってしまい、
迷った末にそれと闘おうとする、というものでしたし・・。
しかし見始めてすぐ選んだ動機に後ろめたさを感じてしまいました。
彼女の生き様・迷い・決意、そして不慮(?)の事故死まで全編を通して見事なまで
に等身大の人間模様がそこに描かれており、それに惹きつけられていったからです。
・・曖昧な書き方ですが以下のようなことを考えるきっかけになりました。
愛のかたちは既成の枠で納められるものではないこと。
その恋愛が叶わず半身がもぎ取られそうな思いをしたって何も恥ずかしくないこと。
信じていた物事に不正が存在しているとき真実を見過ごせずに動く事も、逆に愛す
るものを守るため動けない事もあること。
どちらにも恐怖心は伴うことでより素晴らしい選択かは他者に決められないこと。

そして彼女が直面していた問題は海を越え、この国でも提起されたままです。
彼女のように身を捨てる覚悟で問題点に突き進むことは出来なくてもそのとき
感じたことを伝えるくらいのことはしても良いのではないかと思い、ここに書き
ました。
その映画に興味を持たれた方はビデオ化されていますのでぜひ探してご覧下さい。
(これがゴジラにもシルクウッドにもなれない私からの精一杯のメッセージです)
なお、一緒に見た彼との顛末についてご質問のある方は・・メールでどうぞ(笑)。
 
 

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